Today 2021年8月02日 - 2021年8月06日

8月02日

2 コリント 2

2コリント 2:1 そこで私は、あなたがたを悲《かな》しませることになるような訪《ほう》問《もん》は二度《ど》とくり返《かえ》すまいと決《けっ》心《しん》したのです。
2コリント 2:2 もし私があなたがたを悲《かな》しませているのなら、私が悲《かな》しませているその人《ひと》以《い》外《がい》に、だれが私を喜《よろこ》ばせてくれるでしょうか。
2コリント 2:3 あのような手《て》紙《がみ》を書《か》いたのは、私が行《い》くときには、私に喜《よろこ》びを与《あた》えてくれるはずの人《ひと》たちから悲《かな》しみを与《あた》えられたくないからでした。それは、私の喜《よろこ》びがあなたがたすべての喜《よろこ》びであることを、あなたがたすべてについて確《かく》信《しん》しているからです。
2コリント 2:4 私は大《おお》きな苦《くる》しみと心《こころ》の嘆《なげ》きから、涙《なみだ》ながらに、あなたがたに手《て》紙《がみ》を書《か》きました。それは、あなたがたを悲《かな》しませるためではなく、私があなたがたに対《たい》して抱《いだ》いている、あふれるばかりの愛《あい》を知《し》っていただきたいからでした。
2コリント 2:5 もしある人《ひと》が悲《かな》しみのもとになったとすれば、その人《ひと》は、私を悲《かな》しませたというよりも、ある程《てい》度《ど》‐‐というのは言《い》い過《す》ぎにならないためですが‐‐あなたがた全《ぜん》部《ぶ》を悲《かな》しませたのです。
2コリント 2:6 その人《ひと》にとっては、すでに多《た》数《すう》の人《ひと》から受《う》けたあの処《し》罰《ょば》で《つ》十《じゅう》分《ぶん》ですから、
2コリント 2:7 あなたがたは、むしろ、その人《ひと》を赦《ゆる》し、慰《なぐさ》めてあげなさい。そうしないと、その人《ひと》はあまりにも深《ふか》い悲《かな》しみに押《お》しつぶされてしまうかもしれません。
2コリント 2:8 そこで私は、その人《ひと》に対《たい》する愛《あい》を確《かく》認《にん》することを、あなたがたに勧《すす》めます。
2コリント 2:9 私が手《て》紙《がみ》を書《か》いたのは、あなたがたがすべてのことにおいて従《じゅう》順《じゅん》であるかどうかをためすためであったのです。
2コリント 2:10 もしあなたがたが人《ひと》を赦《ゆる》すなら、私もその人《ひと》を赦《ゆる》します。私が何《なに》かを赦《ゆる》したのなら、私の赦《ゆる》したことは、あなたがたのために、キリストの御《み》前《まえ》で赦《ゆる》したのです。
2コリント 2:11 これは、私たちがサタンに欺《あざむ》かれないためです。私たちはサタンの策《さく》略《りゃく》を知《し》らないわけではありません。
2コリント 2:12 私が、キリストの福《ふく》音《いん》のためにトロアスに行《い》ったとき、主《しゅ》は私のために門《もん》を開《ひら》いてくださいましたが、
2コリント 2:13 兄《きょう》弟《だい》テトスに会《あ》えなかったので、心《こころ》に安《やす》らぎがなく、そこの人《ひと》々《びと》に別《わか》れを告《つ》げて、マケドニヤへ向《む》かいました。
2コリント 2:14 しかし、神《かみ》に感《かん》謝《しゃ》します。神《かみ》はいつでも、私たちを導《みちび》いてキリストによる勝《しょう》利《り》の行《ぎょう》列《れつ》に加《くわ》え、至《いた》る所《ところ》で私たちを通《とお》して、キリストを知《し》る知《ち》識《しき》のかおりを放《はな》ってくださいます。
2コリント 2:15 私たちは、救《すく》われる人《ひと》々《びと》の中《なか》でも、滅《ほろ》びる人《ひと》々《びと》の中《なか》でも、神《かみ》の前《まえ》にかぐわしいキリストのかおりなのです。
2コリント 2:16 ある人《ひと》たちにとっては、死《し》から出《で》て死《し》に至《いた》らせるかおりであり、ある人《ひと》たちにとっては、いのちから出《で》ていのちに至《いた》らせるかおりです。このような務《つと》めにふさわしい者《もの》は、いったいだれでしょう。
2コリント 2:17 私たちは、多《おお》くの人《ひと》のように、神《かみ》のことばに混《ま》ぜ物《もの》をして売《う》るようなことはせず、真《ま》心《ごころ》から、また神《かみ》によって、神《かみ》の御《み》前《まえ》でキリストにあって語《かた》るのです。

8月03日

2 コリント 3

2コリント 3:1 私たちはまたもや自《じ》分《ぶん》を推《すい》薦《せん》しようとしているのでしょうか。それとも、ある人《ひと》々《びと》のように、あなたがたにあてた推《すい》薦《せん》状《じょう》とか、あなたがたの推《すい》薦《せん》状《じょう》とかが、私たちに必《ひつ》要《よう》なのでしょうか。
2コリント 3:2 私たちの推《すい》薦《せん》状《じょう》はあなたがたです。それは私たちの心《こころ》にしるされていて、すべての人《ひと》に知《し》られ、また読《よ》まれているのです。
2コリント 3:3 あなたがたが私たちの奉《ほう》仕《し》によるキリストの手《て》紙《がみ》であり、墨《すみ》によってではなく、生《い》ける神《かみ》の御《み》霊《たま》によって書《か》かれ、石《いし》の板《いた》にではなく、人《ひと》の心《こころ》の板《いた》に書《か》かれたものであることが明《あき》らかだからです。
2コリント 3:4 私たちはキリストによって、神《かみ》の御《み》前《まえ》でこういう確《かく》信《しん》を持《も》っています。
2コリント 3:5 何《なに》事《ごと》かを自《じ》分《ぶん》のしたことと考《かんが》える資《し》格《かく》が私たち自《じ》身《しん》にあるというのではありません。私たちの資《し》格《かく》は神《かみ》からのものです。
2コリント 3:6 神《かみ》は私たちに、新《あたら》しい契《けい》約《やく》に仕《つか》える者《もの》となる資《し》格《かく》を下《くだ》さいました。文《もん》字《じ》に仕《つか》える者《もの》ではなく、御《み》霊《たま》に仕《つか》える者《もの》です。文《もん》字《じ》は殺《ころ》し、御《み》霊《たま》は生《い》かすからです。
2コリント 3:7 もし石《いし》に刻《きざ》まれた文《もん》字《じ》による、死《し》の務《つと》めにも栄《えい》光《こう》があって、モーセの顔《かお》の、やがて消《き》え去《さ》る栄《えい》光《こう》のゆえにさえ、イスラエルの人《ひと》々《びと》がモーセの顔《かお》を見《み》つめることができなかったほどだとすれば、
2コリント 3:8 まして、御《み》霊《たま》の務《つと》めには、どれほどの栄《えい》光《こう》があることでしょう。
2コリント 3:9 罪《つみ》に定《さだ》める務《つと》めに栄《えい》光《こう》があるのなら、義《ぎ》とする務《つと》めには、なおさら、栄《えい》光《こう》があふれるのです。
2コリント 3:10 そして、かつて栄《えい》光《こう》を受《う》けたものは、この場《ば》合《あい》、さらにすぐれた栄《えい》光《こう》のゆえに、栄《えい》光《こう》のないものになっているからです。
2コリント 3:11 もし消《き》え去《さ》るべきものにも栄《えい》光《こう》があったのなら、永《えい》続《ぞく》するものには、なおさら栄《えい》光《こう》があるはずです。
2コリント 3:12 このような望《のぞ》みを持《も》っているので、私たちはきわめて大《だい》胆《たん》にふるまいます。
2コリント 3:13 そして、モーセが、消《き》えうせるものの最《さい》後《ご》をイスラエルの人《ひと》々《びと》に見《み》せないように、顔《かお》におおいを掛《か》けたようなことはしません。
2コリント 3:14 しかし、イスラエルの人《ひと》々《びと》の思《おも》いは鈍《にぶ》くなったのです。というのは、今《こん》日《にち》に至《いた》るまで、古《ふる》い契《けい》約《やく》が朗《ろう》読《どく》されるときに、同《おな》じおおいが掛《か》けられたままで、取《と》りのけられてはいません。なぜなら、それはキリストによって取《と》り除《のぞ》かれるものだからです。
2コリント 3:15 かえって、今《こん》日《にち》まで、モーセの書《しょ》が朗《ろう》読《どく》されるときはいつでも、彼《かれ》らの心《こころ》にはおおいが掛《か》かっているのです。
2コリント 3:16 しかし、人《ひと》が主《しゅ》に向《む》くなら、そのおおいは取《と》り除《のぞ》かれるのです。
2コリント 3:17 主《しゅ》は御《み》霊《たま》です。そして、主《しゅ》の御《み》霊《たま》のあるところには自《じ》由《ゆう》があります。
2コリント 3:18 私たちはみな、顔《かお》のおおいを取《と》りのけられて、鏡《かがみ》のように主《しゅ》の栄《えい》光《こう》を反《はん》映《えい》させながら、栄《えい》光《こう》から栄《えい》光《こう》へと、主《しゅ》と同《おな》じかたちに姿《すがた》を変《か》えられて行《い》きます。これはまさに、御《み》霊《たま》なる主《しゅ》の働《はたら》きによるのです。

8月04日

2 コリント 4

2コリント 4:1 こういうわけで、私たちは、あわれみを受《う》けてこの務《つと》めに任《にん》じられているのですから、勇《ゆう》気《き》を失《うしな》うことなく、
2コリント 4:2 恥《は》ずべき隠《かく》された事《こと》を捨《す》て、悪《わる》巧《だく》みに歩《あゆ》まず、神《かみ》のことばを曲《ま》げず、真《しん》理《り》を明《あき》らかにし、神《かみ》の御《み》前《まえ》で自《じ》分《ぶん》自《じ》身《しん》をすべての人《ひと》の良《りょう》心《しん》に推《すい》薦《せん》しています。
2コリント 4:3 それでもなお私たちの福《ふく》音《いん》におおいが掛《か》かっているとしたら、それは、滅《ほろ》びる人《ひと》々《びと》の場《ば》合《あい》に、おおいが掛《か》かっているのです。
2コリント 4:4 その場《ば》合《あい》、この世《よ》の神《かみ》が不《ふ》信《しん》者《じゃ》の思《おも》いをくらませて、神《かみ》のかたちであるキリストの栄《えい》光《こう》にかかわる福《ふく》音《いん》の光《ひかり》を輝《かがや》かせないようにしているのです。
2コリント 4:5 私たちは自《じ》分《ぶん》自《じ》身《しん》を宣《の》べ伝《つた》えるのではなく、主《しゅ》なるキリスト・イエスを宣《の》べ伝《つた》えます。私たち自《じ》身《しん》は、イエスのために、あなたがたに仕《つか》えるしもべなのです。
2コリント 4:6 「光《ひかり》が、やみの中《なか》から輝《かがや》き出《で》よ」と言《い》われた神《かみ》は、私たちの心《こころ》を照《て》らし、キリストの御《み》顔《かお》にある神《かみ》の栄《えい》光《こう》を知《し》る知《ち》識《しき》を輝《かがや》かせてくださったのです。
2コリント 4:7 私たちは、この宝《たから》を、土《つち》の器《うつわ》の中《なか》に入《い》れているのです。それは、この測《はか》り知《し》れない力《ちから》が神《かみ》のものであって、私たちから出《で》たものでないことが明《あき》らかにされるためです。
2コリント 4:8 私たちは、四《し》方《ほう》八《はっ》方《ぽう》から苦《くる》しめられますが、窮《きゅう》することはありません。途《と》方《ほう》にくれていますが、行《い》きづまることはありません。
2コリント 4:9 迫《はく》害《がい》されていますが、見《み》捨《す》てられることはありません。倒《たお》されますが、滅《ほろ》びません。
2コリント 4:10 いつでもイエスの死《し》をこの身《み》に帯《お》びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身《み》において明《あき》らかに示《しめ》されるためです。
2コリント 4:11 私たち生《い》きている者《もの》は、イエスのために絶《た》えず死《し》に渡《わた》されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死《し》ぬべき肉《にく》体《たい》において明《あき》らかに示《しめ》されるためなのです。
2コリント 4:12 こうして、死《し》は私たちのうちに働《はたら》き、いのちはあなたがたのうちに働《はたら》くのです。
2コリント 4:13 「私は信《しん》じた。それゆえに語《かた》った」と書《か》いてあるとおり、それと同《おな》じ信《しん》仰《こう》の霊《れい》を持《も》っている私たちも、信《しん》じているゆえに語《かた》るのです。
2コリント 4:14 それは、主《しゅ》イエスをよみがえらせた方《かた》が、私たちをもイエスとともによみがえらせ、あなたがたといっしょに御《み》前《まえ》に立《た》たせてくださることを知《し》っているからです。
2コリント 4:15 すべてのことはあなたがたのためであり、それは、恵《めぐ》みがますます多《おお》くの人《ひと》々《びと》に及《およ》んで感《かん》謝《しゃ》が満《み》ちあふれ、神《かみ》の栄《えい》光《こう》が現《あらわ》れるようになるためです。
2コリント 4:16 ですから、私たちは勇《ゆう》気《き》を失《うしな》いません。たとい私たちの外《そと》なる人《ひと》は衰《おとろ》えても、内《うち》なる人《ひと》は日《ひ》々《び》新《あら》たにされています。
2コリント 4:17 今《いま》の時《とき》の軽《かる》い患《かん》難《なん》は、私たちのうちに働《はたら》いて、測《はか》り知《し》れない、重《おも》い永《えい》遠《えん》の栄《えい》光《こう》をもたらすからです。
2コリント 4:18 私たちは、見《み》えるものにではなく、見《み》えないものにこそ目《め》を留《と》めます。見《み》えるものは一《いち》時《じ》的《てき》であり、見《み》えないものはいつまでも続《つづ》くからです。

8月05日

2 コリント 5

2コリント 5:1 私たちの住《す》まいである地《ち》上《じょう》の幕《まく》屋《や》がこわれても、神《かみ》の下《くだ》さる建《たて》物《もの》があることを、私たちは知《し》っています。それは、人《ひと》の手《て》によらない、天《てん》にある永《えい》遠《えん》の家《いえ》です。
2コリント 5:2 私たちはこの幕《まく》屋《や》にあってうめき、この天《てん》から与《あた》えられる住《す》まいを着《き》たいと望《のぞ》んでいます。
2コリント 5:3 それを着《き》たなら、私たちは裸《はだか》の状《じょう》態《たい》になることはないからです。
2コリント 5:4 確《たし》かにこの幕《まく》屋《や》の中《なか》にいる間《あいだ》は、私たちは重《おも》荷《に》を負《お》って、うめいています。それは、この幕《まく》屋《や》を脱《ぬ》ぎたいと思《おも》うからでなく、かえって天《てん》からの住《す》まいを着《き》たいからです。そのことによって、死《し》ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです。
2コリント 5:5 私たちをこのことにかなう者《もの》としてくださった方《かた》は神《かみ》です。神《かみ》は、その保《ほ》証《しょう》として御《み》霊《たま》を下《くだ》さいました。
2コリント 5:6 そういうわけで、私たちはいつも心《こころ》強《づよ》いのです。ただし、私たちが肉《にく》体《たい》にいる間《あいだ》は、主《しゅ》から離《はな》れているということも知《し》っています。
2コリント 5:7 確《たし》かに、私たちは見《み》るところによってではなく、信《しん》仰《こう》によって歩《あゆ》んでいます。
2コリント 5:8 私たちはいつも心《こころ》強《づよ》いのです。そして、むしろ肉《にく》体《たい》を離《はな》れて、主《しゅ》のみもとにいるほうがよいと思《おも》っています。
2コリント 5:9 そういうわけで、肉《にく》体《たい》の中《なか》にあろうと、肉《にく》体《たい》を離《はな》れていようと、私たちの念《ねん》願《がん》とするところは、主《しゅ》に喜《よろこ》ばれることです。
2コリント 5:10 なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座《ざ》に現《あらわ》れて、善《ぜん》であれ悪《あく》であれ、各《かく》自《じ》その肉《にく》体《たい》にあってした行《こう》為《い》に応《おう》じて報《むく》いを受《う》けることになるからです。
2コリント 5:11 こういうわけで、私たちは、主《しゅ》を恐《おそ》れることを知《し》っているので、人《ひと》々《びと》を説《せっ》得《とく》しようとするのです。私たちのことは、神《かみ》の御《み》前《まえ》に明《あき》らかです。しかし、あなたがたの良《りょう》心《しん》にも明《あき》らかになることが、私の望《のぞ》みです。
2コリント 5:12 私たちはまたも自《じ》分《ぶん》自《じ》身《しん》をあなたがたに推《すい》薦《せん》しようとするのではありません。ただ、私たちのことを誇《ほこ》る機《き》会《かい》をあなたがたに与《あた》えて、心《こころ》においてではなく、うわべのことで誇《ほこ》る人《ひと》たちに答《こた》えることができるようにさせたいのです。
2コリント 5:13 もし私たちが気《き》が狂《くる》っているとすれば、それはただ神《かみ》のためであり、もし正《しょう》気《き》であるとすれば、それはただあなたがたのためです。
2コリント 5:14 というのは、キリストの愛《あい》が私たちを取《と》り囲《かこ》んでいるからです。私たちはこう考《かんが》えました。ひとりの人《ひと》がすべての人《ひと》のために死《し》んだ以《い》上《じょう》、すべての人《ひと》が死《し》んだのです。
2コリント 5:15 また、キリストがすべての人《ひと》のために死《し》なれたのは、生《い》きている人《ひと》々《びと》が、もはや自《じ》分《ぶん》のためにではなく、自《じ》分《ぶん》のために死《し》んでよみがえった方《かた》のために生《い》きるためなのです。
2コリント 5:16 ですから、私たちは今《こん》後《ご》、人《にん》間《げん》的《てき》な標《ひょう》準《じゅん》で人《ひと》を知《し》ろうとはしません。かつては人《にん》間《げん》的《てき》な標《ひょう》準《じゅん》でキリストを知《し》っていたとしても、今《いま》はもうそのような知《し》り方《かた》はしません。
2コリント 5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人《ひと》は新《あたら》しく造《つく》られた者《もの》です。古《ふる》いものは過《す》ぎ去《さ》って、見《み》よ、すべてが新《あたら》しくなりました。
2コリント 5:18 これらのことはすべて、神《かみ》から出《で》ているのです。神《かみ》は、キリストによって、私たちをご自《じ》分《ぶん》と和《わ》解《かい》させ、また和《わ》解《かい》の務《つと》めを私たちに与《あた》えてくださいました。
2コリント 5:19 すなわち、神《かみ》は、キリストにあって、この世《よ》をご自《じ》分《ぶん》と和《わ》解《かい》させ、違《い》反《はん》行《こう》為《い》の責《せ》めを人《ひと》々《びと》に負《お》わせないで、和《わ》解《かい》のことばを私たちにゆだねられたのです。
2コリント 5:20 こういうわけで、私たちはキリストの使《し》節《せつ》なのです。ちょうど神《かみ》が私たちを通《とお》して懇《こん》願《がん》しておられるようです。私たちは、キリストに代《か》わって、あなたがたに願《ねが》います。神《かみ》の和《わ》解《かい》を受《う》け入《い》れなさい。
2コリント 5:21 神《かみ》は、罪《つみ》を知《し》らない方《かた》を、私たちの代《か》わりに罪《つみ》とされました。それは、私たちが、この方《かた》にあって、神《かみ》の義《ぎ》となるためです。

8月06日

2 コリント 6

2コリント 6:1 私たちは神《かみ》とともに働《はたら》く者《もの》として、あなたがたに懇《こん》願《がん》します。神《かみ》の恵《めぐ》みをむだに受《う》けないようにしてください。
2コリント 6:2 神《かみ》は言《い》われます。「わたしは、恵《めぐ》みの時《とき》にあなたに答《こた》え、救《すく》いの日《ひ》にあなたを助《たす》けた。」確《たし》かに、今《いま》は恵《めぐ》みの時《とき》、今《いま》は救《すく》いの日《ひ》です。
2コリント 6:3 私たちは、この務《つと》めがそしられないために、どんなことにも人《ひと》につまずきを与《あた》えないようにと、
2コリント 6:4 あらゆることにおいて、自《じ》分《ぶん》を神《かみ》のしもべとして推《すい》薦《せん》しているのです。すなわち非《ひ》常《じょう》な忍《にん》耐《たい》と、悩《なや》みと、苦《くる》しみと、嘆《なげ》きの中《なか》で、
2コリント 6:5 また、むち打《う》たれるときにも、入《にゅう》獄《ごく》にも、暴《ぼう》動《どう》にも、労《ろう》役《えき》にも、徹《てつ》夜《や》にも、断《だん》食《じき》にも、
2コリント 6:6 また、純《じゅん》潔《けつ》と知《ち》識《しき》と、寛《かん》容《よう》と親《しん》切《せつ》と、聖《せい》霊《れい》と偽《いつわ》りのない愛《あい》と、
2コリント 6:7 真《しん》理《り》のことばと神《かみ》の力《ちから》とにより、また、左《さ》右《ゆう》の手《て》に持《も》っている義《ぎ》の武《ぶ》器《き》により、
2コリント 6:8 また、ほめられたり、そしられたり、悪《あく》評《ひょう》を受《う》けたり、好《こう》評《ひょう》を博《はく》したりすることによって、自《じ》分《ぶん》を神《かみ》のしもべとして推《すい》薦《せん》しているのです。私たちは人《ひと》をだます者《もの》のように見《み》えても、真《しん》実《じつ》であり、
2コリント 6:9 人《ひと》に知《し》られないようでも、よく知《し》られ、死《し》にそうでも、見《み》よ、生《い》きており、罰《ばっ》せられているようであっても、殺《ころ》されず、
2コリント 6:10 悲《かな》しんでいるようでも、いつも喜《よろこ》んでおり、貧《まず》しいようでも、多《おお》くの人《ひと》を富《と》ませ、何《なに》も持《も》たないようでも、すべてのものを持《も》っています。
2コリント 6:11 コリントの人《ひと》たち。私たちはあなたがたに包《つつ》み隠《かく》すことなく話《はな》しました。私たちの心《こころ》は広《ひろ》く開《ひら》かれています。
2コリント 6:12 あなたがたは、私たちの中《なか》で制《せい》約《やく》を受《う》けているのではなく、自《じ》分《ぶん》の心《こころ》で自《じ》分《ぶん》を窮《きゅう》屈《くつ》にしているのです。
2コリント 6:13 私は自《じ》分《ぶん》の子《こ》どもに対《たい》するように言《い》います。それに報《むく》いて、あなたがたのほうでも心《こころ》を広《ひろ》くしてください。
2コリント 6:14 不《ふ》信《しん》者《じゃ》と、つり合《あ》わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正《せい》義《ぎ》と不《ふ》法《ほう》とに、どんなつながりがあるでしょう。光《ひかり》と暗《くら》やみとに、どんな交《まじ》わりがあるでしょう。
2コリント 6:15 キリストとベリアルとに、何《なん》の調《ちょう》和《わ》があるでしょう。信《しん》者《じゃ》と不《ふ》信《しん》者《じゃ》とに、何《なん》のかかわりがあるでしょう。
2コリント 6:16 神《かみ》の宮《みや》と偶《ぐう》像《ぞう》とに、何《なん》の一《いっ》致《ち》があるでしょう。私たちは生《い》ける神《かみ》の宮《みや》なのです。神《かみ》はこう言《い》われました。「わたしは彼《かれ》らの間《あいだ》に住《す》み、また歩《あゆ》む。わたしは彼《かれ》らの神《かみ》となり、彼《かれ》らはわたしの民《たみ》となる。
2コリント 6:17 それゆえ、彼《かれ》らの中《なか》から出《で》て行《い》き、彼《かれ》らと分《ぶん》離《り》せよ、と主《しゅ》は言《い》われる。汚《けが》れたものに触《ふ》れないようにせよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受《う》け入《い》れ、
2コリント 6:18 わたしはあなたがたの父《ちち》となり、あなたがたはわたしの息《むす》子《こ》、娘《むすめ》となる、と全《ぜん》能《のう》の主《しゅ》が言《い》われる。」
prev Today next